キュリクスで飲むワイン

現代では、ワインを飲む器といえばガラス製のワイングラスが一般的です。古代ギリシアで使われていた広口の陶器の盃「キュリクス」でワインを飲む場合、グラスで飲むのと何か違いはあるのでしょうか。

結論から言うと、結構違います

そして、このようなウェブサイトを作っておいて矛盾があるかもしれませんが、個人的にはワイングラスのほうが好きです。お気に入りのワインを買って、純粋に味と香りを愉しむ場合に選ぶのは、ワイングラスです。

とはいえ、キュリクスには現代のワイングラスとは異なる魅力があります。

このページでは、実際にキュリクスでワインを飲みながら、現代のワイングラスとの違いや、古代ギリシアの酒器ならではの特徴を紹介します。


現代のワイングラス

ワイングラスは、長い年月をかけてワインを美味しく飲むために改良されてきました。

現代のワインは、色・香り・味わいを総合的に愉しむ飲み物です。そのため、ワイングラスもそれらを最大限に引き出すよう工夫されています。

まず何と言ってもグラスは透明なので、ワイン本来の色を全方位から楽しむことができます。

さらに、飲み口が適度にすぼまった形状のため、グラスの中に香りがとどまりやすく、飲む際に鼻までおおわれることでワインの香りを十分に感じることができます。味と色に加えて繊細な香りも愉しめることは、ワイングラスの大きな特徴です。

また、飲む際にもグラスが視界を遮りにくいため、一緒に食事をしている家族や友人の表情を見ながら自然に会話を続けることもできます。


古代ギリシアのキュリクス

一方、キュリクスは一般的に黒い陶器で作られているため、赤ワインを注いでも基本的に真っ黒に見えます。繊細な色を十分に愉しむことは難しい器です。

また、飲み口が大きく開いた浅い器であるため、ワインの香りが逃げやすいという難点もあります。
私も、キュリクスで飲んだワインを改めてワイングラスについで飲んでみると、「このワインこんな香りしていたんだ!」と驚くことがあります。

さらに、キュリクスではワインを飲む際に器全体が顔の前にかぶさるようになるため、視界が完全に遮られます。家族やお友達と食事をしている場合、ワインを飲むたびに視線が遮られます(器の大きさにもよりますが)。

ワイングラスとキュリクスでワインを飲む際に見える風景はこのような感じです。

ワイングラスの視界。目の前の風景が見える
キュリクスの視界。ようこそ、古代ギリシアの世界へ

ここまでいろいろ書いてきましたが、「キュリクス……、使えないじゃん……」というわけではありません。

実は、キュリクスは「ワインを堪能する」ための器ではなく、古代ギリシアのワイン文化に合わせて作られた器でした。

古代ギリシアのワイン文化

では、その「古代ギリシアのワイン文化」とは一体なんだったのでしょうか。

それは、「個人でワインを嗜む」のではなく、大勢が集うシュンポシオン(酒宴)の席において、「大きな器を傾ける」という一種のエンターテイメント性を持ったものでした。

中には、傾けると古代ギリシア喜劇で使われる仮面のように見える「アイカップ(Eye cup)」というキュリクスもあり、ワインを飲む行為により周りの参加者たちが盛り上がるような仕掛けもありました。

アイカップ(羊皮紙陶房制作)

また、古代ギリシアのシュンポシオンは、「洗練された市民」が招かれる場所でした。あらゆる所作に知性や自制が求められます。

イギリス・ウォーリック大学の古典学者マイケル・スコット教授は、シュンポシオンという場で広口のキュリクスが使われた理由について以下のように述べています。

長椅子に左肘をついて横になってワインをたしなむという、至極不安定な姿勢で、ワインを広口の器からこぼさずに飲めるか。長椅子はコの字型に配置されているため、全員が全員の全身を観察できる状態で、難しい器からエレガントにワインを飲めるか。シュンポシオンに招かれるにふさわしい洗練された市民としてのたしなみを実践し皆に証明するために、わざと難しい器が作られ、使われたと考えられる。
("How To Party Like An Ancient Greek With Historian Michael Scott", History Hit, Youtube)

つまり、現代の私たちが個人、または少人数でワインを嗜むのと、古代ギリシアの酒宴という社交の場でワインを飲むのとでは、社会的機能が異なったというわけです。

現代ワインをキュリクスで飲むということ

現代のワイングラスがこれほど普及しているのは、数千年にわたる試行錯誤の結果です。
もし広口のキュリクスがワインを味わう最高の形なのであれば、そもそも今でも広口の浅い器で飲んでいたことでしょう。

では、あえて現代の私たちがキュリクスでワインを飲む意味とは何なのでしょうか。

それは、ワインそのものを味わうこと以上に、古代ギリシア世界を味わうことなのではないかと個人的には思います。

キュリクスを口元へ運ぶたび、器の内側に描かれた古代ギリシアの情景が視界いっぱいに広がります。2500年前の饗宴への一瞬の旅とも言えるでしょう。

飲み進めるにつれて酒面が下がり、底に描かれた図像が少しずつ姿を現してくるのも、キュリクスならではの魅力です。

実際にキュリクスで現代の赤ワインを飲む際に見える風景を動画でご覧ください。ここでは現代ギリシャのリムニョナ種というブドウから作られた赤ワインを使用しています。(音が出ます)

土から生まれたワインを土の器で飲む

そして、なんといっても、キュリクスは「土の器」です。大地の恵みをたっぷり受けたブドウから作られたワインを、大地そのものからできたキュリクスで飲むということにも、象徴的な意味があるのではないでしょうか。

土から生まれるブドウ(ピノ・グリージョ、横浜ヴィンヤードにて。筆者撮影)