古代ギリシアの陶器は、食事や酒宴、神々への奉献、葬送の儀式など、人々の暮らしのさまざまな場面で用いられ、その器形や文様、描かれた図像は、当時の文化や社会を今に伝える貴重な資料となっています。
エーゲ海世界では、ミノア文明(紀元前3000~1450年頃)やミケーネ文明(紀元前1600~1100年頃)の時代から、優れた陶器が作られていました。その後、ミケーネ文明の衰退と社会の大きな変化を経て、ギリシア世界の陶器は原幾何学様式、幾何学様式、東方化様式へと変化し、やがて黒像式や赤像式、白地など、多彩な装飾技法が発展していきます。
陶器には神話や英雄譚だけでなく、人々の日常生活や祭礼、競技、音楽、酒宴(シュンポシオン)など、さまざまな場面が描かれました。
とりわけ紀元前6~5世紀のアテナイ(現在のアテネ)では、優れた陶工や絵付師たちが活躍し、高度な造形と絵画表現を備えた陶器が数多く制作されました。その多くはエトルリアをはじめ地中海世界の各地へ輸出され、現在では世界各地の博物館に収蔵されています。
古代ギリシア陶器は、美術作品であると同時に、当時の人々の暮らしや信仰、社会を知るための重要な「歴史の記録」でもあります。
このページでは、古代ギリシア陶器の歴史をたどりながら、各時代の特徴と装飾技法の変遷を簡単に紹介します。なお、その歴史は地域・時代ともに非常に幅広いため、本ページでは筆者がアテネ国立考古学博物館およびアテネ古代アゴラ博物館で実際に観察・撮影した資料を中心に解説しています。
エーゲ文明 ― ギリシア陶器の源流(紀元前3000~1100年頃)
古代ギリシア陶器の成立に先立ち、エーゲ海世界では長い陶器文化が育まれていました。クレタ島のミノア文明やギリシア本土のミケーネ文明では、高度な製陶技術が発達し、多彩な装飾を施した陶器が数多く制作されました。
ミノア文明(紀元前3000~1450年頃)
紀元前3000年頃に始まるミノア文明は、紀元前2000年頃からクレタ島を中心に大きく発展しました。陶器の装飾にもさまざまな様式が生まれ、なかでも紀元前2千年紀中頃には、タコや貝、海藻など海の生き物を生き生きと描く「海洋様式(Marine Style)」が発達します。写真中央の壺にも、大きなタコが描かれ、その長く伸びた脚が器面を包み込むように配置されています。

器の形に沿って広がる流動的な曲線と、海の生き物を大胆に取り入れた装飾は、ミノア陶器を代表する表現の一つです。こうした自然を題材とする躍動感のある造形は、同時代の壁画などにも見られ、ミノア美術の大きな特徴となっています。
ミケーネ文明(紀元前1600~1100年頃)
ギリシア本土で栄えたミケーネ文明では、ミノア文明の影響を受けながら独自の陶器文化が発展し、海洋文様や植物文様に加えて、人物や動物、戦車なども描かれるようになりました。
以下の写真は、ミケーネ遺跡の墓円形区Aから出土した陶器の数々です。海洋文様の影響を残すものから、人物や動物を描いたものまで、多彩な器が制作されていたことがわかります。

ミケーネ文明末期には、武装した戦士たちが列をなして進む姿を描いたクラテールも作られました。器の大きな画面を利用して人物を並べた構図からは、ミケーネ陶器における人物表現の展開を見ることができます。

ミケーネ文明では、ワインを飲むための脚付き杯や両手付きの杯など、多様な酒器が作られていました。古典期のキュリクスとは器形が異なりますが、酒を飲むという営みのために多様な形の器が作られていたことは、後のギリシア世界にも通じる興味深い特徴です。


やがて紀元前12世紀頃にミケーネの宮殿社会が崩壊すると、社会や交易のあり方は大きく変化し、線文字Bによる文字文化も姿を消します。その後の初期鉄器時代には、亜ミケーネ様式から原幾何学様式へと陶器の装飾も変化し、紀元前9~8世紀には幾何学様式が発展しました。こうした変化を経て、後の黒像式や赤像式へと続くギリシア陶器の新たな展開が始まっていきます。
なお、後世のギリシア人が語り継いだトロイア戦争の物語は、ミケーネ文明末期にあたる紀元前13~12世紀頃の青銅器時代末期を背景としていると考えられています。もしその物語にミケーネ時代の記憶が残されているとすれば、アキレウスやオデュッセウスの酒宴の場にも、このような脚付き杯が並んでいたのでしょうか。
幾何学様式(紀元前9~8世紀頃)
紀元前9~8世紀頃になると、直線や円、三角形、ジグザグ、メアンダーなどを組み合わせた幾何学文様が、器の表面を帯状に覆うようになります。文様は器形に沿って規則正しく配置され、陶器全体に整然としたリズムを生み出しました。この特徴から、この時代の陶器は「幾何学様式(Geometric Style)」と呼ばれています。
幾何学様式は、オイノコエ(注器)やピクシス(小物入れ)、アスコスなど、さまざまな器形に用いられました。帯状に並ぶ直線や円、メアンダーなどの文様が器面を構成し、器の形と調和した秩序ある装飾を生み出しています。

後期になると、人物や馬、戦車、船なども盛んに描かれるようになります。人物は三角形の胴体や細い手足など、単純化された形で表現されました。特に紀元前8世紀のアテナイでは、大型のアンフォラやクラテールに死者を悼む葬送儀礼や行列などが描かれ、墓標として用いられたものもあります。
こうした人物や物語的な場面の表現は、次の東方化様式を経てさらに多様化し、やがて黒像式や赤像式に見られる神話や英雄譚の豊かな図像表現へとつながっていきます。
東方化様式(紀元前7世紀頃)
紀元前7世紀頃になると、フェニキアやエジプト、アッシリアなど東地中海世界との交易や交流が活発になり、ギリシア陶器の装飾にも大きな変化が現れます。
それまでの幾何学文様に加えて、ライオンなどの動物や、スフィンクス、グリフィンなどの想像上の生き物、ロゼット(花形文様)、蓮華文、パルメットなど、東方に由来するさまざまなモティーフが取り入れられるようになりました。また、人物や戦車などを組み合わせた物語的な場面も増え、陶器の図像表現はより多様なものとなっていきます。こうした傾向は「東方化様式(Orientalizing Style)」と呼ばれています。
写真のアンフォラでは、幾何学文様を基調としながら動物文様が加わり、幾何学様式から東方化様式への移り変わりを見ることができます。クラテールには人物や馬、戦車などが大きく描かれ、幾何学様式とは異なる物語的な図像表現の広がりを見ることができます。
こうした東方化様式のなかから、人物や動物をシルエット状に描き、細部を線刻する黒像式の技法がコリントスで発達し、やがてアテナイにも取り入れられていきます。
黒像式陶器(紀元前7世紀後半~6世紀)
紀元前7世紀前半にコリントスで発達した黒像式の技法は、紀元前7世紀後半にはアテナイにも取り入れられ、紀元前6世紀に大きく発展しました。黒像式(Black-figure、黒絵式とも)では、人物や動物などの図像を黒く表し、赤褐色の器面との鮮やかな対比を生み出します。
人物や動物の姿は、焼成によって黒く発色する精製された粘土を用いてシルエット状に描かれ、その表面を鋭い道具で線刻することで、筋肉や衣服のひだ、髪の毛などの細部が表現されました。さらに白色や赤紫色などの付加色を部分的に用いることで、人物の肌や衣服、装飾などに変化をつけています。
題材にはギリシア神話や英雄譚のほか、戦争、競技、酒宴(シュンポシオン)など、さまざまな場面が描かれました。これらの図像は単なる装飾にとどまらず、古代ギリシアの神話世界や社会、生活文化を考えるうえでも重要な資料となっています。

写真上のキュリクスには人物や動物が器を取り巻くように描かれています。キュリクスは酒宴(シュンポシオン)でワインを飲むために用いられた杯で、こうした器の形と絵画装飾との組み合わせもギリシア陶器の大きな魅力です。アンフォラには兜が大きく表現されています。クラテールには馬と人物が並ぶ場面が大きく描かれ、ワインと水を混ぜる大型の器面を活かした堂々とした構図となっています。
紀元前6世紀、アテナイは黒像式陶器の一大生産地となり、その優れた作品はエトルリアをはじめ、地中海世界の各地へと輸出されました。そして紀元前530年頃になると、アテナイで赤像式(Red-figure、赤絵式とも)の技法が考案されます。黒像式とは反対に人物などの図像を陶土の赤褐色のまま残して背景を黒くし、細部を線刻ではなく筆による描線で表現することで、人体や衣服などをより自由かつ繊細に描くことが可能になりました。こうしてアッティカの陶器絵画は、新たな表現の段階へと進んでいきます。
赤像式陶器(紀元前530年頃~4世紀)
紀元前530年頃、アテナイで黒像式とは逆の発想による赤像式(Red-figure、赤絵式とも)の技法が考案されました。
黒像式では人物などの図像を黒く描いて細部を線刻していましたが、赤像式では背景を黒くし、図像を陶土本来の赤褐色のまま残します。細部を筆による描線で表現できるようになったことで、線の太さや濃淡を使い分けながら、筋肉や衣服のひだ、表情、人体の動きなどを、より柔軟かつ繊細に描くことが可能になりました。
題材には神話や英雄譚のほか、酒宴(シュンポシオン)、競技、音楽、女性たちの日常生活など、さまざまな場面が描かれています。こうした図像は、古代ギリシアの社会や生活文化を考えるうえでも貴重な資料となっています。

最初の写真のキュリクスには、内側の見込み(トンド)に人物像が大きく描かれています。キュリクスに注がれたワインを飲み進めるにつれて底の絵が姿を現す仕掛けは、酒宴(シュンポシオン)の場を楽しませる視覚的な演出でもありました。続く写真にはさまざまな赤像式キュリクスのほか、アンフォラやレキュトスなど多様な器形が見られ、赤像式が幅広い種類の陶器に用いられていたことがわかります。
赤像式は紀元前5世紀のアテナイで最盛期を迎え、その後も紀元前4世紀まで制作が続きました。また、その技法は南イタリアなどにも広まり、各地で独自の赤像式陶器が発展していきます。今日では、黒像式とともに古代ギリシアの陶器絵画を代表する様式として知られています。
白地陶器(主に紀元前5世紀)
白地(White-ground)とは、器の表面に白色の化粧土を施し、その上に人物や文様を描く技法です。アッティカでは紀元前6世紀後半から用いられ、紀元前5世紀には特に白地レキュトスにおいて発展しました。
白い背景を活かして人物の輪郭や衣服などを繊細な線で描き、さらにさまざまな色彩を加えることで、黒像式や赤像式とは異なる、明るく絵画的な表現が生み出されました。一方、焼成後に加えられた彩色は定着が弱く摩耗しやすかったため、こうした多色彩の白地陶器は実用には適していませんでした。特に紀元前5世紀のアテナイでは、墓を訪れる場面や死者との別れなどを描いた白地レキュトスが数多く作られ、墓前への奉納など葬送の場で重要な役割を果たしました。

古代ギリシアの墓からは、白地レキュトスが副葬された例も数多く見つかっています。また、墓前に供えられることもあり、紀元前5世紀のアテナイでは葬送と深く結びついた器となりました。墓を訪れる人々や死者との別れなど、葬送にまつわる静かな場面が描かれた作品も多く、白い地に施された繊細な線描と彩色は、黒像式や赤像式とは異なる独特の絵画表現を生み出しています。
古典期以後(紀元前4世紀後半〜)
紀元前4世紀後半になると、アテナイでは赤像式をはじめとする絵画陶器の生産が次第に衰退していきます。一方、南イタリアやシチリアでは、すでに紀元前5世紀後半から赤像式陶器の制作が始まっており、アプリア、ルカニア、カンパニアなど各地で独自の様式が発展しました。
その後のヘレニズム時代には、黒色光沢陶器や型を用いて浮彫装飾を施した陶器など、新たな種類の器が広く作られるようになります。黒像式や赤像式に代表される器面に人物や物語を描く陶器は次第に少なくなり、ギリシア陶器の装飾は新たな展開を見せていきました。
ギリシア陶器の器形や装飾技法の一部は、ヘレニズム世界からローマ時代へと受け継がれ、地中海世界の陶器文化にもさまざまな影響を与えました。また、古代ギリシアの陶器は後世に再発見・収集され、近世以降のヨーロッパにおける古代美術への関心にも大きな影響を与えることになります。
まとめ
古代ギリシア陶器は、エーゲ海世界の長い陶器文化を背景として、幾何学様式、東方化様式を経て、黒像式や赤像式、白地など多彩な装飾技法を生み出しました。器に残された文様や図像は、優れた美術表現であると同時に、古代の人々の暮らしや信仰、社会を今に伝える貴重な資料でもあります。
羊皮紙陶房では、この長い歴史のなかでも、黒像式・赤像式が盛んに制作された紀元前6~5世紀のアッティカに注目し、とりわけ酒宴(シュンポシオン)で用いられたキュリクスを中心に、文献や実物資料をもとに研究・制作を行っています。
また、器の形や装飾を再現するだけでなく、制作したキュリクスに実際にワインを注ぎ、シュンポシオンでどのように使われていたのかを考える実験も行っています。成形や絵付けの技術に加えて、「どのように器を持ち、どのようにワインを飲み、そこに描かれた絵を目にしていたのか」という、器と人との関わりを体験的に探ることも、羊皮紙陶房の探求・制作活動の大きな目的です。










